序章
 今から私がここに書きつける物語が、いつ、どこで、誰によって語られたか、それはここでは伏せておくことにしよう。その事実はさほど重要ではない。この物語を読みすすめるうち、君たちもおのずから気付いてくるだろうが、人間のこころにとって本当に必要なものは、乾いた「事実」ではなく「物語」なのだ。
 よほどの幸運に恵まれれば、君たちもこの物語の本当の語り手に出逢えるかもしれない。彼の口から肉声で語られる物語を、直接自分の耳で聴く方が、およそ私がこれから書こうとする下手な散文を読むより、君たちにとっては幸福なことに違いない。だが残念なことに、いま君たちが住んでいるこの現実世界では、彼に出逢える可能性はきわめて少ない。この世界ではもう「物語」を語る者より「事実」を語る者の方がはるかに重宝されるのだ。
 むろん、この世界で生きてゆくためには、あるていどの「事実」を知識として知ることも必要だろう。だが生きるために本当に必要な「事実」とは、君たちが思っているより、そして世間の大人たちが言うよりも、ずっと少なくていいものなのだ。世間にはそれを解らぬ者たちが大勢いて、ほんとうは不要でつまらぬ「事実」を、さも貴重なものであるかのように吹聴し、後生大事に目一杯頭の中に詰め込み、他人にもそれを強要してくる。そうしなければ生きてゆけないと思っている。そんな者たちでこの世界はあふれかえってしまった。嘆かわしいことだが「物語」はこの世から駆逐されつつあるのだ。
 だが考えてもみたまえ。君たちが住むこの世界に、こころを病んでいる人たちがこんなにも多くなってしまったのは何故だと思うだろうか。「事実」がそんなにも人間にとって大切なものなのなのだろうか。
 もう一度繰り返しておく。人間のこころにとって本当に必要なものは、乾いた「事実」などではなく「物語」なのだ。
 ――さて、味気ない前おきはこれくらいにしておくことにする。君たちにとって、私のこんな愚痴めいた話こそ、有益なものにはならないだろう。
 物語を受け入れる準備は出来ただろうか。では、書きはじめることにしよう。