第一章 コルコ
Kolko

目覚め
 ある朝、ガブリエル・コルコは、いつものように自分の部屋の、自分のベッドの上で目を覚ました。目覚めた瞬間、なにやら気がかりな違和感を感じたが、しばらくその違和感の正体が何であるかに気づかなかった。
 眼に入り込んでくる光の量がやけに多い。コルコは首をゆっくりとめぐらし、窓を見た。いつもは締め切ってあるはずのカーテンがすっかり開け放たれ、そこから入り込んだ陽の光が、たっぷりと部屋全体に満ち満ちていた。
 自分はどれくらい眠っていたのだろうか。同じようでいて、今日の目覚めは、いつもの日常の目覚めとはまるで違う。あたかも、今日はじめて、ほんとうに<目覚めた>かのような気さえする。
 しばらくベッドの上でぼんやりと横たわっていたが、かすかに物を置くような音がドアのある方角から聞こえた。コルコは軽い驚きをおぼえ、すぐさま起き上がった。耳をすましてみた。ドアの向こうで誰かが物を置いていったのだろうか。たしかに何かを床に置くような物音だった。だがそれにしては、その誰かが、立ち去ってゆく足音が聞こえない。いやその前に、このドアの前までその何者かが近づいてきたことに気づかなかった。それが彼には驚きだった。コルコは自分の部屋に近づいてくる者の気配に敏感だ。彼の気づかぬ間に何者かがこの部屋に近づいてくるということは今まで一度もなかった。たとえ寝ていても自分の部屋に近づく者の気配を敏感に察知し、瞬時に目覚めるほどだ。
 コルコは言い知れぬ不安を感じた。ベッドから降り、恐る恐るドアに近づいていった。そこを開けてみるべきかどうか、幾分かの間逡巡していた。
 やがて意を決しドアの取手に手をかけた。なるべく、いつものように、さりげなく取手を押していった。いつもと同じような振る舞いをすれば何事も起こることないだろう、という、根拠のない願いにすがるように。だが、開け放ったドアの向こうに広がっていた光景は、いかなる想像をも絶していた。
 いつものように薄暗い廊下と薄汚れた壁がそこにあるはずだった。なるほど、幅一間ほどの板敷の廊下は、たしかに足元にはある。だがその向こうの、目の前にあるべき壁がすっかりなくなっていて、茫漠たる砂漠が広がっていたのだ。
 正確に言うと、コルコの頭は、その光景が砂漠であると認識するまでに相当な時間を要した。滑稽なことだが、人間の頭は、突如として想像を絶するものに出会ったとき、それを自分にとって、より好ましいものであると解釈したがる傾向があるようだ。起伏のないなめらかな砂の海を、コルコは眼にした瞬間、生クリームの海だと思った。冷静に考えればその方が非現実的で馬鹿げた認識ではあるのだが――しかし、わずかに黄味がかったほとんど純粋な白に近いその砂の海は、嫌が上にも圧倒的な“終焉”と“死”を象徴しており、コルコの頭脳はほとんど本能的にその不吉な意味を拒絶しようとしたのだ。
 コルコは足元の廊下(という意味はすでに失われていたが)の上に撒き散らかっている砂の粒を見て、目の前にひろがっているものが断じて生クリームのような有益性のあるものではなく、絶対的に無機的な広大な砂の海であることを認めた。
 目の前の広大な砂漠を見つめ続けているだけで、コルコは自分の体と心がどんどん消耗してゆくのを感じた。ドアを閉めようとして、ふと、足元に箱が置かれていることに気づいた。
 先ほどの物音は、何者かがこの箱を廊下に置く音だったのだろうか。だが、それにしても、ある疑問が浮かんでくる。コルコは廊下周辺の砂地を見回してみたが、足跡らしきものはひとつもない。繰り返すが、彼は自分の部屋に近づく者に過敏な反応をしてしまう人間なのだ。箱は確かにそこにあるが、それをここまで運んできた者の気配と痕跡がまるでない、ということは普通有り得ないことだ。
 コルコはその箱をひろいあげてみた。靴箱ほどの大きさと形だが、中に入っているものも、やはり靴ほどの重さのようだ。それを開けてみたいという好奇心と、これ以上頭を混乱させるものに出会いたくないという恐れが、交互に胸に去来してくる。とりあえず部屋の中に戻り、ベッドの上にその箱を置いた。
 深く息を吸い吐いたあと、両手で蓋を持ち、今度はなるべくゆっくりと、大切なものを納めている宝箱を開けるように、慎重に、そっと蓋を持ち上げた。
 そこには首のない人形がおさまっていた。
 それは、手垢のついた薄汚れた子供の人形だったが、何故か首が失われていた。禍々しい形のはずだが、その人形を取り上げたコルコの胸に、何故か懐かしい思いが沸き起こってきた。